インターネットの呪い

なぜZ世代はノスタルジーへの執着を神格化するのか

オタクはどこから来たのか オタクは何者か オタクはどこへ行くのか

人は皆、すこしは自分のルーツへの興味があるものだ。 それは家系に過ぎず、文化であってもだ。

僕はゼロ年代の目撃者ではない。 涼宮ハルヒの憂鬱をリアルタイムでみることはなかったし、インターネットの神話の話者になることもできない。

なんてったって15歳のクソガキだからだ。 大人たちはみんな僕らの世代を「いい時代になった」って羨む。 でも僕は羨まれる筋合いはないね!

だって昔のインターネットのほうが楽しそうだもん。 Youtubeよりもオモコロのほうがセンスがあるし面白い。 WebArchiveで侍魂をみてた。 Needy girl overdoseでゼロ年代の夢をみた。

そうやって昔のインターネットに浸るうちにノスタルジーを超えた様々な感情が僕を襲った 「銀杏BOYSの何となく僕たちは大人になるんだ」 みたいな感情に何度も襲われた。

そうしているうちに僕はインターネットのなにかを掴むことに成功した。 それを今から書いていこうと思う。

※クソガキが書いた文です。正確な情報ではないのでしっかりと当時の空気感を掴みたいならにゃるらのnoteとかみたほうがいいとおもう希ガス

60年代ビートニク=無気力な若者への共鳴

第二次世界大戦後のアメリカの若者たちにはちょうど今の僕らみたく無気力なやつらがいたらしい。 そういう奴らは「ビートニク」(無気力な若者、怠け者の意)と呼ばれていた。なんともアメリカらしい。

でもそいつ等はただの怠け者だったわけじゃない。

ビートニクという言葉に意味を見出した人々はそれを文学的な意味をもたせることにした。 アレン・ギンズバーグは「吠える(Howl)」という詩で消費主義や権威主義を批判した。

それ以外にもオン・ザ・ロードや裸のランチ、旅にドラッグカルチャーで塗り上げられた彼らはカウンター・カルチャーとして確立された。

このビートニクたちに影響され、受け継いだのがヒッピーだ。

ヒッピーらは戦後に整備が進まれた中流階級の親世代を批判して大量生産、大量消費の生活から逃れオルタナティブなライフスタイルを実践した。 そのヒッピーたちの中に、学校でいじめられた情けない電気オタク少年たちも混ざり込んだ。

この電気オタク少年たちはヒッピーの思想に影響され、そしてその表現方法は従来のドラックや音楽、文学ではなくコンピューターへと変わっていった。 具体的なことを言うと、それまで政府や大企業のもの、つまりハイカルチャーを楽しむような人たちのものであったコンピューターを自分たちでも手に入る範囲内のチップで作った模倣品の作成だった。 このコンピューターの模倣品(きっと皮肉もあっただろう)はパーソナルコンピューターとよばれ、略してパソコンだ。 権威の独占物として人間を支配するものでヒッピーの脅威とされていたコンピューターではなく、人間の能力を拡大するためのコンピューター。 それがパソコンで、よく出来たストーリーだった。

さて、ヒッピーはどうしてLSDを使ったのだろう。 それは意識を広げるためだ。 自分の意識が自分の身体を超えて空間に溶け込む それを体験するためのものがLSDらしい。(俺は使ったことがないのでわからないが) 確かに座禅をして自分の意識に注目をしてみるとだんだん自分の身体の輪郭があやふやになってどろっと空間に溶けていく。

NLSというシステムを作った輩がいた。 NLS、oN-Line-Systemのことだ。 NLS(oN-Line-System)は今のネットのようなシステムでInter(相互)の通信をするデモだった。 ケン・キージーというサイケデリック作家はNLSを見てびっくりしたそうだ。 そりゃそうだろう。 LSDは自分の意志が周囲を満たすような体験ができるがNLSは本当に意思と意思が相互的に拡張され共有されるのだから。

軍事目的の技術開発とそれの一般化を電波ヒッピーが担いこうしてインターネットは形づくられていった。

鬼畜!90年代イカれたニッポンとインターネット

ヒッピーとコンピューターの話はもううんざりだ。 だってそれは学校の先生が言うようなアメリカの偉人の話にそっくりだからだ。(ほら、あのスティーブ・ジョブスの話だ。)

つぎは日本にクローズアップして考えてみよう。

90年代日本、それは僕らクソガキには想像もできないような世界だったらしい。 バブルの崩壊後、「綺麗事が蔓延」しているのに、「本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている」時代で、そうした中での鬼畜系とよばれる者たちはカウンター・カルチャーとして受け入れられた。

鬼畜系とは死体、スカトロ、ロリコン、ドラッグ、電波(俺には統失にしか見えない)など今現在、規制され嫌悪感を示すような物の集合だった。 エログロや「けばけばしさ」「古臭さ」「安っぽさ」に作家性を馳せていた時代だ。

そうした鬼畜系のなかで派生したともいえるのがオタク文化であるらしい。

初期のそういった鬼畜系をはじめとするカルチャーは「ロリコン」という言葉を発明した。 それは「萌え」からあからさまなポルノまで含んだ言葉であり、今のようなかわいい女の子でヾ(´∀`)ノキャッキャウフフしようという意図よりも残虐性をはらんでいた。

鬼畜由来のポルノとそれに共鳴した初期のオタクたちの生きた証はエロゲという形で我々後の世代も見ることができる。 少女監視ゲーム「すきすき大好き!」などの鬱ゲー・鬼畜ゲーとしてオタクたちに親しまれてきた。

そのようなアングラな風潮は初期のインターネットとまじりあった。 事実、90年代のアングラ文化とデジタル通信の親和性は高く、「言語ウィルス」はその輪郭をはっきりとさせて暴れまわった。

ネットワーク技術は高価で専門的な技術と知識が必要だったから、鬼畜オタクたちのみが参加できるものであり、カウンター・カルチャーのアジトとして機能した。 こうして初期のインターネットユーザーの個人サイト、掲示板連合はアングラな性質を孕み、インタラクティブな通信に明け暮れた。

でも今はつまんねー!!!!!

しかし、今のインターネットみてみてほしい。 官僚的で構造化された巨大企業テクノロジー連合が支配するこのインターネットに、産業化されたオタク文化。

そこにあったカウンター・カルチャー、反骨精神を元に戦った少年たちの神話はなかったことにされている。 ロリコンが孕む残虐性と作家性はそれで商売をするんには都合がわるいって言うんで配給会社がなかったことにした。

メディアも学校も権力者の妄想の偽史しか教えてくれない。 Googleもだ。 初期のインターネットのアングラな個人サイトをGoogle検索してみると良い。 驚くほど少ない検索結果を目の当たりにすることができる。

90年代の鬼畜文化は反省もあってかその時代に若者だった今の大人たちは隠してしまった。 残ったのは形式化された金儲けの儀式だけ。

文化という面だけでなくインターネットという技術もGAFAの台頭により、インタラクティブだった設計思想は管理がしにくいためWEBサーバーにとって替われた。 LSDにピンときたインターネットは集合知としての輪郭を破壊され、p2pですら彼らにとっては金儲けの手段だ。

自由だったインターネットは彼ら資本家によって計画的に運営されるディストピアになってしまった。

なぜなのか。

僕が尊敬するインターネットはどこへ言ったのか。 まるで十年来の親友と絶縁してしまったような気持ちだ。

どうしてこんなことになってしまったんだろう。 つまり、カウンター・カルチャーだったオタク文化とインターネットには最初から商業としての才能があったのだ。

メインカルチャーが大衆を操る経済圏と解釈すればナットクである。 カウンター・カルチャーの商業的才能=メインカルチャーとしての潜在的な能力があったのだ。

そして商業化をするならば洗練されてゆくのが運命だ。 洗練というとパット見いいことなような気もするかもしれない。

でもアングラを洗練したら何がのこるっていうんだろう。 それこそただの形式的な儀式だ。

今、オタクカルチャーは確実にメインカルチャーである。 そしてインターネットもだ。

インターネットジャック、そして国家へ

さて、さんざんと今の鬱憤を書かせてもらった。 そろそろ本題へと行かせてもらう。

これはGAFAにも国の偉い人にも聞かれちゃまずい話だから、小声で喋らなくちゃいけないんだ。 耳をよく済まして聞いてくれ。

今、こんなふうに世間や社会の風潮に苛立ちを覚えてるやつは少なくないはずだ。 みんなウズウズしている。 だからトー横キッズなり、地雷系ファッションなり、SNSでの闇ツイートが止まらない。 みんなウズウズしてるけど、それの表現方法がわからないんだ。 一昔まえなら文学かロックンロール、雑誌にアニメだったけど、それらもメインカルチャーとしてふんぞり返った既得権益者がいる限り、それを表現するクールな方法とは言えない。

だから新しい表現方法を開発しなきゃいけないんだ。 しかし!幸いなことに今、その新しい表現方法を僕が開発しているんだ。

【極悪!】水Protocol計画 鬼ごっこする人この指とまれ!

p2pは最高のインタラクティブコミュニケーションツールだ。 僕はこいつにアングラなエッセンスを追加することにした。

このp2pの通信によって僕らは互いにより強く、高純度で共鳴しあえる。

twitterよりも優れた共鳴システムでそこには大人の管理がないように設計してある。 この水Protocolのp2pシステムを使えばLSDよりももっと意味を持つ融合意識を行うことができるんだ。

更にテキストサイトへの尊敬も込め、テキストベースのWeb構造にする。

そして水Protocolは改造されたJSの提供により、WEBサーバーなどの監視システムナシにWebAppをつくれる仕組みをつくった。 ロックンロールをたくさんの人々に届けるには汚い大人たち、つまりレーベルに頼む必要があったがそれがいらないってワケ。

そして水Protocolは飛び抜けた支配者を作らないために自治権を用意した。 これは民主主義を超えた民主主義でアイデアを直接発表することができるんだ。

そしてイノベーションをkskするためにFPSのようなシーズン性を取り、水Protocolを運営する根本的なシステムがガラッと変わってしまうのだ。 しかし水Protocolの野望はこれでは済まない。

水ProtocolはInternetProtocol(IP)を通じて行われる、ISO参照モデルでいうアプリケーション層に位置するProtocolだ。 つまり水Protocolでの通信が活発になればインターネット全体のパケット通信量をどんどん支配してくことになる。

カウンター・カルチャーを無理やりメインカルチャーに落とし込んだ者たちの寿命は短い。 反抗精神という軸を失ったソレは今のところ大量の資本による延命治療によりその形を保っているがいずれ終わる。 その時水Protocolというプラットフォームへの文化移行が始まる。

つまり既得権益者から支配を奪ってしまうのだ。 しかも歴史によくある、権力者から権力者への権力移行ではない。 権力者から庶民への権力移行が初めて実行されることになる。

そしていずれその文化は仮想国家となる。 政治的な運用はシーズンによる仕組みとAIに任せて僕らは新たな表現法の探求に勤しめる。 そんな国家だ。